京都産業大学体育会男子ラクロス部について

■ 主将挨拶

私たちの代の活動目標は「学生日本一」です。

 「学生日本一」と言葉で言うのは簡単ですが実際に達成するのは困難な道のりであることはわかっています。
しかし、この目標を達成することで京都産業大学男子ラクロス部に新たな道を切り開くことができます。
そして、今年はこれからの京都産業大学男子ラクロス部にとって強い京産でいられるかという大事な1年になります。

そこで、学生日本一という目標を達成するために今までの伝統を受け継ぎ、また新たな取り組みをし日々成長し続けるチームを作っていきます。
そして、学生日本一という目標を掲げた以上達成する責任があります。
この1年間「学生日本一」にこだわり続け日々練習に取り組むので応援よろしくお願いします。

最後になりますが、この1年間、OBの方や保護者の皆様を始めとする多くの方々にお世話になりますがよろしくお願いします。

京都産業大学体育会男子ラクロス部 2017年度 主将 土谷 徳秀

■ ヘッドコーチ挨拶

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京都産業大学体育会男子ラクロス部の歴史について

■ 創部 〜 1部への道のり

京都産業大学男子ラクロス部は、1991年、初代主将 小川誠 氏を中心としたメンバーで創部した。

創部当初の練習場所は、出町柳近くの河川敷だった。

練習をしても、練習時間よりパスミスで鴨川に落ちたボールを探す時間の方はるかに長かった。

また、ラクロスを始めたものの、どのような練習をすればいいかわからなかったため、

京都のみならず、大阪、神戸へよく出稽古にいっていた。

 

時代の流れとともに、活動場所を出町柳から柊野へと場所を移す。

 

京都産業大学総合グラウンドの麓にある通称「柊野グラウンド」は、

ゲームフィールドの半分にも満たないほどの狭いグラウンドだった。

 

このグラウンドには、多くの思い出がつまっている。

 

・最寄に主な公共交通機関がないので、バイクか自転車が必需品となる。

・原付バイク(スクーター)所有者は、自動的にゴール等の備品類の運搬係となる。

・一般的な公共のグラウンドのため、地元の少年野球チームが練習の時はグラウンドを使えなかった。

・ゴール裏は道路に面しているため、シュートを外した時は、、、

・もちろんナイター設備などないので、原付バイクのライトを照らしながら自主練をしていた。

・クリア中に空中のボールにばかり気を取られると、グラウンドの際にあるベンチや溝に足をとられる。

・クリア中にトップ付近でパスミスをすると、ボールはグラウンド横の川に勢いよく飛び込む。

・台風や大雨で川が増水した日には、グラウンドは池と化す。

・真夏の練習後のクールダウンは、グラウンド横の川にそのままダイブ。

などなど

 

今では想像できないような環境で練習していたが、それが私たちのラクロスだった。

そんな中、2部リーグで戦っていた私たちは、体育会への正式加盟(2001年)を機に何かが変わり始める。

この頃だったかだろうか、私たちは「下剋上」という言葉を使うようになっていた。

 

その翌々年(2003年)から2部リーグ制から3部リーグ制へ変更の編成が決まると、

2002年のリーグ戦では、少しの勝数の差で3部降格となった。

その時、この3年後に、このチームがFinal3決勝の舞台に立っているとは、誰も想像しなかっただろう。

 

2003年、3部リーグを全勝し2部リーグに自動昇格すると、

2004年、2部リーグを2位となり、1部リーグ7位の大阪大学との入替戦を制し、初の1部昇格を果たした。

 

ここまでならありえそうな話だか、伝説はまだ続く。

 

初めての1部リーグの舞台。

しかも、長居球技場(現:キンチョウスタジアム)での開幕戦を大差で勝利すると、

その勢いのまま、6勝1分の負けなしで1部リーグ1位通過し、Final 決勝へと駒を進める。

 

決勝の大舞台など経験したことがない私たち。

観客席は間違いなく浮き足立っていたが、フィールドの選手たちは落ち着いていた。

http://www.lacrosse.gr.jp/-/RELAX2003/field_repo/2005/league2005/kansaigakusei/final_m/final_m.html

 

終わってみれば、11-2。完勝だった。

 

そこから今日まで、

一度は2部リーグに降格するも、翌年すぐに昇格。

多くの時間を1部リーグで戦い、Finai3への出場を果たす機会も多くなった。

また、毎年の関西ユースやR、U-22日本代表への選出の実績も定着化してきており、

卒業後に、各地のクラブチームで活躍する面々が増えてきている。

 

今では、1部リーグが当たり前のチームだが、

実は、先述のような「河川敷」「柊野」時代があったということ。

 

その先人たちが、諦めずに続けてきたから、繋げてきたからこそ、

私たちは、いまの舞台で切磋琢磨できるのだ。